概要
「保守」という言葉には、本来「守る」というイメージがある。
ITで言えば、安全稼働を目的とした保守運用。
一方で開発は、多少の失敗を恐れず前に進む「攻め」の役割だ。
ところが政治の世界では、この感覚が逆転しているように見える。
日本の保守は軍備強化など“攻め”に映り、
リベラルは平和や自由を重視する“守り”に見える。
なぜこのような、あべこべな状態が生まれているのか。
ITの比喩と歴史の視点から、この違和感の正体を掘り下げてみる。
本質の深堀
ITの世界における保守とは、
システムを安定稼働させ続けるためのメンテナンスだ。
基本思想は「変えないこと」「壊さないこと」であり、完全に守りの役割である。
一方、開発は違う。
新しい機能を作り、改善し、前に進む。
多少のミスを許容しながら突き進む姿は、まさに攻めだ。
ところが政治の世界を見ると、印象は逆になる。
日本の保守は軍備強化や防衛力増強を主張し、
戦争に近づく「攻め」のイメージを持たれやすい。
一方でリベラルは、自由や平和を重んじ、守りの立場に見える。
そもそも保守とは、
伝統や既存の価値観、制度を維持し、急激な変化を避ける思想のはずだ。
ではなぜ、日本では保守が攻めに見えるのか。
ここでITの保守に置き換えて考えてみる。
もし、ボロボロの状態でシステムがリリースされていたらどうなるか。
仕様変更や改善をしなければ、そもそも安全稼働すらできない。
その場合、保守側が「変える」「攻める」動きをしなければならなくなる。
今の日本は、これに近い状態なのではないか。
この違和感は、歴史を振り返ると説明がつく。
日本の「伝統」や「価値観」は、敗戦によって戦前と戦後で大きく断絶した。
戦争放棄・戦力不保持を掲げ、安全保障をアメリカに大きく依存する体制が作られた。
アメリカが圧倒的な覇権国だった時代、この構造は非常にうまく機能した。
日本は安全保障を任せ、経済に全振りすることで先進国へと成長した。
しかし現在、その前提が揺らいでいる。
中国がアメリカを脅かす存在となり、
地理的にその中間にある日本は、否応なく影響を受けやすい立場に置かれている。
アメリカの力が相対的に弱まるほど、
「安全保障を全面的に任せる」という選択はリスクになる。
その結果、本来は守りであるはずの保守が、
「現状を維持するために、変わらざるを得ない」立場に追い込まれている。
これが、日本の保守が攻めに見える理由ではないだろうか。
まとめ
保守とリベラルが逆転して見える違和感は、
思想の問題というより、前提条件が崩れていることから生まれている。
ITでも、壊れかけのシステムを守るためには、
あえて攻めの保守が必要になることがある。
日本も同じ状況に立たされているのかもしれない。
「守るために、動かなければならない」
この矛盾を抱えた状態こそが、
今の日本の保守が置かれているリアルな立ち位置なのだと思う。


コメント